ゲームというエンターテイメントの問題点

青臭い話なので耐性の無い人は読まないほうがいいかもしれないしそうでもないかもしれない。
文学・映画・テレビ・ラジオ・音楽など多種多様なエンターテイメントのメディアがある中でゲームというものは特異な性質を持っている。というのは今日放送されたNNN ドキュメント’05の「ゲームのなかの戦争 あなたは人を殺せますか? 」という放送を見て感じたこと。番組の内容としては、ゲームの持つ暴力的な部分がもたらす社会への影響をクリエイターなどの視点から捉えるというもの。戦争ゲームなどの暴力性の高いゲームがいわゆるゲーム世代の犯罪に影響を与えている部分は少なからずあると思うし、面白いテーマかなと思った。株式会社エンターブレイン*1代表取締役長浜村弘一氏は番組の中でこう言っている。「人の心とか感情を揺さぶるようなことが行われないと、次のステップにいけないはずなんですよ(中略)だから、映像の刺激だけにとらわれず次のステップに行くために人々の感動を呼ぶような作品を作り続けていってほしいなと思いますね」と。確かにコンテンツを提供するの側の問題点としてそれはこれからの課題なんだろうなと思った。
ただ、おいらが感じた特異性というのはそれとは別で、他のメディアでのエンターテイメントというのが内容やストーリーをクリエイターが一方的に提示してそれを観客が受け止めるというかたちのものであるのに対して、ゲームというものは一つのシステムの中でクリエイターたちからのメッセージを提示されてもプレイヤーはそれを無視できてしまう点にあると思う。
好きなアーティストのCDを買って歌詞を聴かずにカラオケのトラックだけを聞く人はいだろうし、映画館に映画を観に行ってわざわざ重要なシーンのときだけトイレに立つ人は見ない。なぜならそこにこそ作品の重要なメッセージがあり、そこに感動があるから。そして、受け取る側もそれがそこにあることを知っていて、それを受け止めることを目的としているから。
しかしゲームについてはそうとばかりもいえない。確かにクリエイターはゲームを作るときにストーリーを練ってそれをさまざまな手段で表現してプレイヤーに訴えようとする。けれど、ゲームのプレイヤーは情報の取捨選択が容易にできる。例えば一つの戦闘シーンが終わったあとにその戦闘についてのムービーが流れるとして、戦闘の中では伝え切れなかったメッセージがそこにこめられていたとしても、それをプレイヤーが必ず見るという保障は無い。「早く先に進めたいからとばしたい」と思ったらそのムービーそのものをとばすだろうし、それができなければムービーの間はトイレに行っているかもしれない。つまり、刺激的な戦闘やらその映像、そのシステムだけを快楽として享受するための道具としてしか機能しない可能性があるということ。例えばメッセージの飛ばし読み、例えば攻略本に頼った選択肢を選択するだけのクリア。こういうプレイの仕方を、発売日から2,3日でクリアしてしまう人たちがしない保証は無い。極端な話、ストーリーの背景やらキャラクターの性格なんて知らなくても楽しめてしまう。
これはインタラクティブ性を追求する上ではどうしても回避不可能な問題なのかもしれない。けれどこういったシステムが続く以上、どんなに感動できるストーリーを盛り込んだとしてもそれにモザイクをかけてプレイしてしまう人はいなくはならないと思う。
おいらにそれを打開する策はないけれど、だからこそ結局は個人としてどういう遊び方をするかにかかっているのかもしれない。

*1:ファミ通などのゲーム雑誌をたくさん発行している会社